阪神淡路大震災から28年(ひとりごと)

阪神淡路大震災から28年も経ちました⏰
28年も経つと正直年々記憶は薄れてきています。
と言うか忘れてしまいたい事も
沢山あり。大学4回生だったので、
普通に大人ですから、だいたい覚えています。
(独り言に近いです。😑)

私は東京に来るまで神戸
垂水と言う場所に住んでいました。
震源地の淡路島と目と鼻の先です。
震源地からの距離は近かったものの、
活断層の走っている方向とは違ったので、
建物の倒壊などは少ない地域でした。

その日の夕方までに電気だけは
復旧したので、テレビで三宮駅前
《そごう》の建物が見るも無残に潰れている
映像はショッキングでした。📺
いつも普通に買い物している場所
だったから余計に。

電気はその日の夕方に復旧したん
ですが、ガス管が破損してしまっていたので、
ガスは2ヶ月くらい復旧せず
自宅ではその間は普通に風呂には
入れませんでした。

この時私はアトピー性皮膚炎
マックスに悪くてステロイド依存症に陥って
いて、毎日発狂しそうな痒みとの戦いなのに、
風呂に普通に入れないと言うのが
かなりきつかった。
(思い出したくない理由はこれ!😪)

大学は確か暫くは休講でしたが、
交通の復旧が少しづつ再開
するタイミングで大学も再開したような、、
この辺は記憶が曖昧です😑

普段は神戸の垂水から大学のある
大阪南港まで毎日2時間かけて通学
していましたが、電車が止まって
いたので、垂水から通学は出来ないので、
大阪の堺に住んでいる親戚が
『堺から大学に通ったら?』
と言ってくれたので疎開みたいな感じで、
堺に向かう事にしました。

とりあえずはダイレクトに
大阪方面には出られません。
一旦🚕タクシーで西明石まで出て、
(タクシーで垂水より西方面の西明石までの
道中、古い木造建築は結構倒壊してました。)
西明石から更に西方面加古川まで出て、
大きく北へ迂回するルートしか大阪には
出れなかったので、
JR加古川線(加古川〜谷川)→
JR福知山線(谷川〜大阪)へと
自分の必要な荷物、大切な物を
持って、向かいました。👜

自宅から大阪は普段は玄関からは
1時間なのに、この時は7時間経って
ました。それも全て感覚が麻痺して、
その時はしんどくも何ともなく。

後で時計⏰を見てびっくりしましたが、
それよりも大阪に着いて、びっくり
したのは大阪は別世界、普通に
バーゲンもしていて、人の営みは
通常運転💃✨自分は瓦礫など上から
降ってきたらあぶないから、帽子にスニーカー
いかにも被災者ルック(←昭和😂)
命からがら逃げてきた被災者そのもの。

神戸と大阪の目と鼻の先でも交通が
分断されてしまうと、こんな差があるんだと
愕然としました。そこから2週間くらいは
堺の家から大学に通わせてもらい、
その後は代行バスが走るようになったので、
(これがまた渋滞やらめっちゃ並ばないと
乗れないと言う。。。。)今みたいにネットもない
ので、とりあえず行って、そこで聞いて待つ毎日。
片道3時間半かかって、1時間かそこらの授業や
レッスンを受けに通ってました。
(あの時の自分、よく頑張った‼️)
要するに往復7時間費やして通学。
(大学ももうちょっと考えてよね。。。)
そんな卒業の年の数ヶ月を過ごしました。

この年は本当にいろんな事件も
ありましたね。地下鉄サリン事件
あったし、異様な年でセットで思い出します。
でもこの時期は私はアトピーによりかなり
生活も見てくれもグチャグチャに
なっていたので、かなりメンタルも
ギリギリでした。地震を思い出すと
同時に不快な感覚、
(毎日消えてしまう事ばかり考えてましたね。)
この数年間の事はあまり思い出したくない
のも正直あったりします。😪

そんな訳で、長〜いですが、
記録として書いてみました。
消えてしまいたい話はアトピーの重度の方は
ほぼ分かって貰える事だと思いますが、ここでは
掘り下げるのはやめておきます。
(今は良い新薬沢山出て来ましたし、
私も昨年9月から高額ですが、
デュピクセント注射の治療を始めて、
普通に生活出来るように
なりました。このお話はまた別の機会に。)